ニッケ日記

主にベトナムのこと、ときどき投資

ベトナム語は南部方言で学んでいます

はじめに

ベトナム語は南部方言で学んでいます。

ベトナム語の方言については、他に良い記事や詳しい解説がたくさんあるので、そちらに譲るとして。

今回は、なぜ私がベトナム語を勉強しているのか、また、なぜ南部方言なのかについて、ダラダラと自分語りしてみます。

きっかけ

ベトナム語を始める前、英語とフランス語を勉強していました。それと、少しだけアラビア語をやってみたこともあります。

ただ、勉強しているうちに、言語ってこれで全部なんだっけ?という疑問が自分の中に湧いてきました。

世界には数千の言語があるらしい。それなのに、数個の言語を学んだだけで終わってよいのか。しかも、学んだのは西洋や中東の言語。もっと身近なアジアにも目を向けた方が、言語の豊さに触れることができるのでは。そんなことを考えるようになりました。

そうは思ったものの、穿った見方をすると、中国語や韓国語はちょっとメジャーすぎる気がしました。じゃあ、その隣は?

ということで、ベトナム語を勉強し始めました。

ある種のニッチ戦略ですね。

……1億人以上が話す言語を「ニッチ」と呼んでいいのかは、さておき。

妻との出会い

また、ブログで書くのは初めてかと思いますが、私の妻はベトナムの方です。

妻との出会いも、ベトナム語を選んだきっかけの一つです。

ただ、ここで主張しておきたいのが、私は妻がベトナム人だからベトナム語を勉強しているというわけではない、という点です。

照れ隠しとかではなく、仮に「パートナーが外国人だから、その国の言葉を学ぶ」という理論が成り立つなら、外国語を学ぶ悉皆の人々のパートナーが、その国の方になってしまいます。

よく、ベトナム語のような「マイナーな言語」を勉強している理由を聞かれ、妻がベトナム人だと知ると、

「あ〜。なるほどね」

という返事が返ってくることがあります。

私は、それが好きではありません。

もちろん、「パートナーがその国の人だから、その国の言葉を学んでいる」という方も多くいることは存じていますし、私自身も、それが学ぶモチベーションの一つになっていることは事実です。

ただ、「パートナーのために外国語を学んでいる」というところにすぐ落とし込んでしまうのは、少し単純すぎる推論なのではないか、と思っています。

人が言語を学ぶ理由なんて何でも良いと思います。

結局のところ、ベトナム語を学ぶというのは、あくまで私自身の選択なのです。

南部方言を選んだ理由

一方で、南部方言については、完全に妻の影響です。

一応、ベトナム語の方言について説明すると、大きく北部・中部・南部の方言があって、それぞれ発音やいくつかの単語が異なります。

標準語は北部方言なので、ベトナム語の学習者は基本的に北部方言を勉強することになります。

しかし、妻はホーチミン出身で、南部方言を話します。

そのため、私のベトナム語は南部方言にカスタマイズされています。

と、ここまで書いて思ったのですが、もしかしたらタイトル詐欺をしていたかもしれません。

というのも、私は別に南部方言の教材を使ってベトナム語を勉強しているわけではないからです。

普段取り上げるベトナム語のニュースも、文章について特に方言を意識しているわけではないですし、音声メディアも、北部方言のものをよく聞きます。

では、何が南部方言なのかというと、会話なのです。

私の場合、妻は日本語ができるので日本語で話すのですが、ベトナムの家族や友人と会話するときは、南部方言を使います。

つまり、読解や聴解は北部表現で、会話するときは南部方言を使うという不思議な状態が生まれています。

ベトナム語を勉強して思うこと

ベトナム語を勉強していて思うのが、単語や文法そのものも面白いのですが、言語を通じて知る話者たちの世界観も魅力的なことです。

例えば、duyên nợ という言葉があります。

duyên は、人との出会いや縁のようなもの。漢字にすると「縁」です。nợ は、「借り」や「負債」を意味する言葉です。

それが組み合わさって、単なる「運命的な出会い」というよりも、「何かしらの縁があって出会い、そこに何らかの結びつきや因縁がある」というような意味になります。

出会いを「縁」だけではなく、「借り・負い」と一緒に捉えるという見方が新鮮でした。

他にも trộm vía という表現があります。

例えば、子どもを「かわいい」と褒めるときに、trộm vía と添えることがあります。

これは、子どもを褒めることで悪いことが起きないように、という昔からの民間信仰に由来する表現です。

ベトナム語の学習を通じ、その背後にある価値観に触れることができます。

新しい単語を一つ覚えるというより、自分の世界に新しい見方が一つ追加されるような感覚があり、こういう言葉を通じて新しい概念を知ることが好きです。

ただ、こんなことを書いてますが、学習が順調かというと、全然そんなことはありません。

単語はなかなか覚えられないし、発音も通じないことも多いです。

昔は、そんな自分が嫌で、なんでこんなこともできないんだろうと思うこともありました。

でも、最近は少し受け入れられるようになりました。

言い換えると「ネガティブ・ケイパビリティ」に少し近いのかもしれません。

分からなくてもいいし、ファジーなままでもいい。

すぐに答えを出そうとせず、とりあえずその状態をそのまま受け入れてみる。

分からないまま、もう少し付き合ってみる。

そんなことをもう何年も続けています。

「正しいベトナム語」とは何なのか

南部方言で「学んで」いると、正しいベトナム語って何なのかなと思ったりもします。

例えば、北部と南部で同じものを別の単語で表す場合、どちらもそれぞれ意味は通じます。標準語という意味では北部の表現が「正しい」のかもしれませんが、南部で実際に使われている言葉を「間違い」と呼ぶのも、なんだか違う気がします。

加えて、発音の面では北部と南部にかなりの差があり、CDで学んだはずの音が全く聞き取れないということがしばしばありました(し、今もあります)。

英語など「メジャー」な言語を勉強していると、「〇〇語というものがあって、そこにある程度決まった形があり、それを勉強していけばいい」という感覚を持つことがあります。

ところが、ベトナム語の、特に南部方言と向き合っていると、そう簡単にはいきません。

実際にそれで悩んだ時期もあり、南部方言なんて知らなければ、こんなに悩まなかったのになと思ったことさえありました。

しかし、その悩みがあったからこそ、これまで当たり前だと思っていた「正しい言語」という感覚そのものについて考えるようになりました。

思い起こすと、かつてアラビア語を勉強した時も、標準語の「フスハー」と口語の「アーンミーヤ」に分かれていて、「なんで全部フスハーじゃないの」と疑問に思っていました。

アラビア語の学習自体はすぐにやめてしまったので、そのときはそこまで深く考えることもありませんでした。

が、今振り返ってみると、この悩みというのは、自分が真剣にベトナム語に向き合った結果、生まれたものなのだと思います。

人には理想と現実があって、その間にズレがあるから悩むのだと思います。

であるならば、理想と現実が違うことを、そのまま受け入れてしまえば良いのだと思います。

私自身がベトナム語の学習のために使える時間は有限ですし、言語の学習には終わりがありません。

すべてを知ろうとするのではなく、今の自分が出会った言葉を大切にし、それをそのまま学んでいけばいい。

そもそも、人々の共時的・通時的な営みによって生み出された言語という世界において、「正しい」なんてスパッと決められるものなのか。

「正しい」ベトナム語なんかを探すよりも、その中にある多様性を認識し、参与観察的に実際に人が使っている言葉を学びたいというのが今の私の思いです。

おわりに

今の自分にとって、ベトナム語は何なのか、と言われると、多分「大人の自由研究」なんだと思います。

妻との会話はほぼほぼ日本語なので、生活で必要というわけでもないです。仕事で必要というわけでもないです。

それでも、好きだから調べる。

そして、調べているうちに別のことが気になる。

そうやって、永遠の夏休みが繰り返される。

そんな感じで、これからもベトナム語の学習を続けていければなと思っています。